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【歴史の雑学】おもしろい戦国時代の雑学10選!織田信長、豊臣秀吉など

【歴史の雑学】おもしろい戦国時代の雑学10選!

今回は歴史の雑学として、戦国時代の雑学10選をお届けします。

とてもおもしろい内容ですので、歴史に興味ある人もそうでない人も、ぜひ最後までご覧ください。

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織田信長はスイーツ男子?

織田信長はスイーツ男子?

冷酷で残虐な世間のイメージとは裏腹に、織田信長は大の甘党でした。

現代風に言うならばスイーツ男子だったのです。

宣教師ルイス・フロイスよって献上された金平糖を見た織田信長は、その独特な形に驚き、口にした瞬間あまりの美味しさに感動し、何度も金平糖を取り寄せたそうです。

織田信長はキラキラネームの元祖?

織田信長はキラキラネームの元祖?

織田信長の名付けのセンスはかなり個性的でした。

長男に奇妙丸(きみょうまる)、次男には茶筅(ちゃせん)と名付けました。

茶筅とは茶の道具ですから、その辺からとってつけたような名前ですね。

あだ名に関してもその才能を発揮し、天下の豊臣秀吉に対してはハゲネズミと称し、明智光秀の事はきんかん頭となじりました。

きんかん頭とは要するにハゲ頭の事です。

今だったらパワハラで訴えられますねw

織田信長の首はいずこへ?

戦国時代一番の謎と言えば、織田信長の首の行方です。

家臣の明智光秀は本能寺で信長を討ち取りますが、首を発見することはできませんでした。

光秀は、織田信長を討ち果たした証拠として、当然信長の首を血眼になって探したはずです。

それでも見付からないとなると、すでに首は別の場所へ持ち逃げされていたと考えるのが自然です。

だとすると持ち去った犯人は一体誰なのでしょうか?

一説によると日本初の黒人武士である家臣の弥助が、信長の命により首を持ち逃げしたと言われています。

弥助は、同じく信長の家臣であった前田玄以(げんい)に信長の首を渡し、それをもとに信長のデスマスクが作られたとか。

豊臣秀吉は大の猫好き

豊臣秀吉は大の猫好き

最近は猫好きな人がとても多いですが、豊臣秀吉も大の猫好きだったそうです。

溺愛していた飼い猫が行方不明になってしまった時にはとても落ち込んだそうです。

家臣総出で大阪城から伏見まで猫を探し回ったのですが、なかなか見つかりません。

家臣の浅野長政は秀吉を心配し、知り合いに「飼い猫を探している間だけ秀吉のためにあなたの猫を貸してほしい」という内容の手紙を送ったそうです。

豊臣秀吉、親友の娘を側室にする?

多くの側室を召し抱えるほど女好きだった豊臣秀吉ですが、なんと親友前田利家の娘にも手を出してしまったのです。

秀吉は、前田家の実質人質として差し出された前田利家の三女摩阿姫(まあひめ)を側室にしました。

摩阿姫の妹である豪姫がすでに豊臣秀吉の養女でしたので、前田利家は二人の娘を秀吉に差し出すことで、秀吉に忠誠を誓ったのでした。

徳川家康は双子だった?

徳川家康は双子だった?

徳川家康といえば江戸幕府初代将軍ですが、実は双子だったのではないかという説があります。

本物の徳川家康は戦死しており、よそでかくまわれ密かに暮らしていた双子の弟と入れ替わり、後世の徳川家康を演じていたのではないかと言われています。

家康が弟と入れ替わったタイミングは、今川家から独立した時や武田信玄と戦った三方ヶ原(みかたがはら)の戦い頃でないかと言われています。

双子説の他にも影武者にすり替わった説もあり、とにかく謎が多い戦国武将です。

明智光秀はノイローゼだった?

明智光秀はノイローゼだった?

明智光秀といえば、主君織田信長を突然裏切り討ち果たした男です。

しかし、なぜ突然謀反を起こしたのか、現在もその理由は明らかになっていません。

諸説あるのですが一つの説として、ノイローゼ説があります。

晩年の明智光秀はノイローゼ(神経症)の症状が出ていたと言われています。

精神的に追い詰められていて、プッツンと気持ちの糸が切れた明智光秀が、明確な目的もないまま衝動的に織田信長を討ち果たしたそうです。

実は本能寺の変については他にも黒幕説、怨恨説、光秀の野望説など様々あるのですが、どれも決め手に欠けるため、いろいろな説が存在しているようですね。

農民は強かった

農民は強かった

戦国時代の農民というと、みなさんどんなイメージを持っていますか?

一生懸命耕した農村が戦によってめちゃめちゃにされるという弱い姿をなんとなく想像しますが、実はそんなに弱い存在ではなかったんです。

各家に刀、槍、鎧などを普通に持っていて、いざ戦となれば足軽として参戦していたのです。

足軽という事は真っ先に突っ込む部隊ですから、ある意味一番の戦力部隊です。

村同士の争いでは、武士に頼るのではなく自ら戦っていました。

農民の食事は?

農民の食事は?

戦国時代の農民の食事は1日2回で、主にひえや粟などの雑穀を雑炊にして食べていました。

当時お米もありましたが、農民にとってお米は食べるものではなく、作って年貢として収めたり売るためのものでした。

ひえや粟の他には、大根やイモ類などの野菜や野草も食べていました。

現代人も食べる漬物や切り干し大根なども食べていたそうですよ。

獲物が取れれば肉を食べたり沿岸部では魚を食べたりしていましたが、基本的には肉や魚を食べる機会はほとんどありません。

農民の食事はとても質素なので一見栄養が不足してそうに見えますが、塩分や脂肪分の取りすぎている現代人よりも、もしかしたら健康的かもしれませんね。

戦前はH禁止?

戦前はH禁止?

戦国時代の武将は、戦の3日前からH禁止のお達しがありました。

しかし、三大欲求である性欲を簡単に我慢できる訳もなく、戦場ではイケメンの可愛い部下を相手に事をなしていたそうです。

庶民の間でもHは日常茶飯事で、宣教師のルイス・フロイスが驚く程でした。

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